講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

現代思想論

第13回 映画と自由間接話法

今日から本格的に講義を再開。ベルクソンのイマージュ論のところから簡単におさらいをした後、知覚イマージュへ。映画における主観的知覚と客観的知覚との分かち難さが言語における自由間接話法の問題と交叉するという(パゾリーニに依拠した)ドゥルーズの…

おすすめ映画紹介

こちらも休日授業なのでドゥルーズを離れ、個人的趣味による映画紹介など。今日はとくに、レンタルショップでもすぐにみつかりそうな娯楽作品のなかで、自分にとって印象に残っているいくつかのシーンを一応のつながりをつけて並べてみました。紹介したのは…

第12回 ヴァリエテ

本当は前期のまとめをやろうと思っていたんだけど、体調を崩し週末に授業準備ができず。声もつらいので、今日は急遽映画上映ということにさせてもらいました。E.A. デュポン監督の「ヴァリエテ」(1925年)。普通に楽しめたのではないかと思います。ドイツ表…

レポート締め切り

現代思想論および特殊研究のレポート受付はすでに締め切りました。これから提出してもらっても成績はつきませんのでご了承ください。

サンライズ

本日は休日返上の授業日。そこで通常の講義は行わず、授業のなかで断片的に見てもらった映画のなかから選りすぐりの一本、ムルナウ監督の「サンライズ」を上映しました。時間がぎりぎりで解説したり感想を聞いたりできなかったのが残念でしたが、きっと見て…

第11回 ベケット「フィルム」(2)

先日見てもらったベケットの「フィルム」について、ベケット自身のテクストをまず紹介し、その後でドゥルーズがどのようにこれを分析しているのかを見ていきました。そして最後にもう一度解説を交えながら上映。先週見たときには見えていなかったものを見る…

第10回 イマージュ(2)、ベケット

まず、前回解説したベルクソンのイマージュ論をみなさんからの質問をもとに別の観点からもう一度取り上げ直し、その上でベケットの「フィルム」を上映。ベルクソニスムと映画との関係はちょっとわかりづらかったかもしれませんが。 次回は「フィルム」につい…

第9回 イマージュ

ラングとムルナウの映像をもとにドイツ表現主義と「力学的崇高」との関係について簡単に解説した後、ベルクソンのイマージュ論へ。本日はまず、「現れるもの」のすべてをイマージュとみなすことによってどのような帰結が得られるのか、そしてそれが映画とど…

第8回 ガンス、ラング、ムルナウ

まず前回見てもらったガンスの映像についてその特徴を、ドゥルーズにならってカントの「崇高」を引き合いに出しつつ解説。そしてそのままドイツ表現主義へ進むべく、ラング「メトロポリス」、ムルナウ「ノスフェラトゥ」の映像を上映しました(青学では機械…

第7回 ヴェルトフ、ガンス

本日はまず、ソヴィエト的モンタージュに属する一本として、ジガ・ヴェルトフ「カメラを持った男」。シナリオを廃した彼の映像がいかなる意味において弁証法的かつ非有機的であるのかを解説しました。 その後、フランス的モンタージュの代表として、アベル・ガ…

第6回 Cinema1第3章(1)

今日からモンタージュの話。ドゥルーズが言う4種類のモンタージュのうち、今日は、アメリカ的モンタージュ(「有機的」)とソヴィエト的モンタージュ(「弁証法的」)について、グリフィス監督「國民の創生」とエイゼンシュテイン監督「十月」を部分的に見…

第5回 Cinema1第2章(2)

先週の画面構成の話に続いて、今日はカットの話。カットは純粋な運動の知覚を我々に与えてくれる、というドゥルーズの主張について主に解説しました。次回からモンタージュに入ります。 本日の映像は、ヒッチコック「ロープ」。究極のワンシーン・ワンカット…

第4回 Cinema1第2章

先週はお休みにしてしまって大変失礼しました。とくに青学は朝なので来てしまってから休講を聞いたのではないかと。申し訳ありません。 本日からCINEMA1第2章。まず運動に関するベルクソンのテーゼが、画面構成、カット、モンタージュという映画の基本的な…

第3回 Cinema1第1章(続き)

GWをはさんでいたこともあり、前回のおさらいをしながら第1章を終わらせました。今日のポイントは、運動は全体(質的変化)の「動的断面」coupe mobileである、というベルクソンの第3のテーゼ。 次回は第2章。映画の具体的な技法の問題が扱われることにな…

第2回 Cinema1第1章

まず、ドゥルーズもたびたび言及するヴィンセント・ミネリ監督の作品『巴里のアメリカ人』の圧倒的ダンスシーンを上映。今日のところはただ単に、ダンスと映画とを比較する目的でとりあげてみました。映画のなかのダンスがどのような意味、役割を持つかはと…

第1回 イントロダクション

現代思想論と青学特講ではいずれもドゥルーズの『シネマ』を解説していきます。 映画半分、哲学半分、という感じで、毎回一つは何らかの映像(基本的にドゥルーズが扱っている映画の一部分)を見てもらう予定。本日はD.W.グリフィス監督『イントレランス』(…

レポート締切

現代思想論、3ゼミ、特殊研究の期末レポートは、本日締切です(厳守!)。 提出方法その他についてはそれぞれ以下のページを参照してください。 現代思想論後期レポート 3ゼミレポート 特殊研究後期レポート

レポートの書き方

現代思想論、特殊研究、青学特講のレポートについて、どのように書けばよいかまだよくわからないという声がありましたので、以前「レポート評価基準」として授業で説明した内容を、「レポートの書き方」として個人サイト上に掲載しておきました。参考にして…

最終回 総まとめ

フーコーの研究を「主体の学」から身を引き離すプロセスとして読み解くことを目指したこの1年間の授業について総括。そもそもなぜ別の仕方で思考しようと試みることが必要なのか、なぜ信じきっていたものを疑わなければならないのかということについてもあ…

第22回『知への意志』(3)

「セクシュアリティ」という概念の歴史的形成およびそれに対する抵抗の可能性についてのフーコーの分析を解説。「性解放運動」に対するフーコーのつれなさにも言及しました。 年内の授業はこれにて終了。1月の最後の授業では『性の歴史』第二巻、第三巻をお…

第21回『知への意志』(2)

今日は、とくに精神分析に関して前回に出た質問に対して回答しました。それから、「生権力」と性とのかかわりについて復習。次回は「セクシュアリティ」、性解放運動といった問題を取り上げる予定です。

第20回 『知への意志』(1)

今日から『性の歴史』。西欧において性はどうして長いあいだ抑圧されてきたのか、という伝統的な問いに、西欧はどうして性についてかくも語りたがるのか、という問いを対置するフーコーの分析を、ひとまず導入部だけ紹介。次回は、そのような性に関する言説…

第19回 『監獄の誕生』(3)

フーコーの権力分析における「誰が?」という問いの不在から出発して、そこで「権力」がいったいどのようなものとして考えられているのかを紹介。それから、裁判において「魂」が標的とされるようになっているというフーコーの主張について、これが何を含意…

第18回『監獄の誕生』(2)

君主権的権力と身体刑との関係についての前回の話を受けて、今日は規律権力と監獄との関係について日常的な例を出しながら解説。「見られずに見る」装置としての「パノプティコン」についても、図解しつつ紹介しました。 なお、後期レポートについても説明。…

第17回 『監獄の誕生』(1)

私は私自身を直接的に把握できるのかという、前回扱った問題に補足を加えることによって60年代の「知」の軸を終了、70年代の「権力」の軸へ。ただしここでもやはり、「主体の学」がいかに権力にとって有用なものとなりうるかという点に焦点を絞りながら解説…

第16回『言葉と物』(2)

『言葉と物』第2回。「物自体」について補足的に説明した後、基礎的有限性と人間学的思考との関係について、そしてとりわけ、私は私自身を知りうるのかという問題について、できるだけ平易に解説・・・したつもりですが、いかがでしたでしょうか? 来週は休…

第15回『言葉と物』(1)

本日より『言葉と物』の話。「物自体」がどうにもわかりづらかったようで申し訳ありませんでした。次回はできるだけ哲学用語を使わず日常的な言葉で理解してもらえるよう工夫します。そして早めに権力の問題に移行しましょう。

第14回『これはパイプではない』

他の授業でもたびたび紹介したフーコーの「これはパイプではない」について。やはりいきなり絵画の話だったのでちょっと面食らってしまったかもしれませんね。興味を持ってくれた方は、フーコーのテクストおよびマグリットの作品に直接あたってみてくれると…

第13回 後期イントロ

秋学期第1回。まず、レポートに関する評価基準を説明した後、これまでやったことのおさらいと今後の予告。前期は『臨床医学の誕生』まで終わったので、後期は『言葉と物』から解説していきます。ただ次回は、みなさんの要望にもとづいて、フーコーのマグリッ…

第12回

『レーモン・ルーセル』と『臨床医学の誕生』との共鳴について。見えるものを「構成する」ものとしての見えないものが「構成される」ことによって初めて、見えないものを明らかにしようという任務が思考に対して課される、という構造を、1963年の二つの著作…