講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

負の所得税

講義とは直接関係ないけれど、話題の「負の所得税」について。ミシェル・フーコーは、新自由主義に関する歴史的かつ批判的分析を展開した1979年の講義『生政治の誕生』(邦訳252-256頁)のなかで、1970年代のフランスにおいて企図されたものとしての「負の所得税(impôt négatif)」について以下のように語っています(要するに、「負の所得税」とは、競争の産出のための統治という新自由主義的原理を、ラディカルなやり方で適用するための手段に他ならない、ということです)。


「第一に、負の所得税という考えによって明白なやり方で目指されている行動、これはいったい、何を緩和しようとするものでしょうか。それが緩和しようとしているのは、貧困の諸効果であり、諸効果のみです。つまり、負の所得税は、貧困のしかじかの原因を変容させることを目標とするような行動たろうとしているのでは決してないということです。負の所得税は、決して貧困の因果関係のレヴェルにおいてではなく、ただ単にその諸効果のレヴェルにおいてのみ作用するであろうということ。これが、ストレリュが以下のように書くときに語られていることです。「ある人々は、社会扶助は貧困の原因によって動機づけられていなければならないと考える」、したがって、保障すべきもの、差し向けられるべきもの、それは、病であり、事故であり、労働への不適性であり、職を見つけることの不可能性である。つまり、このような伝統的見地においては、誰かに対して援助を行うときには必ず、なぜ彼はそうした援助が必要なのかということが問題となり、彼がそれを必要とする理由に対して変容を加えようという試みがなされるということです。これに対し、「他の人々にとって」、つまり負の所得税の支持者たちにとって、「社会扶助は、貧困の諸効果によってのみ動機づけられなければならない。あらゆる人間には根本的必要がある。社会は、人間が自分自身でそうした必要を満たしえないときにそれを保障しなければならない 」。したがって、極端な言い方をするなら、よい貧者と悪い貧者、意図的に労働しない人々と意図的ならざる理由によって労働しない人々とのあいだに、西欧の統治性がかくも長いあいだ打ち立てようとしてきたあの区別など、重要ではないということです。結局のところそんなことはどうでもよい。ある人物について、なぜ彼が社会ゲームのレヴェルから転落するのかなどということを気にしてはならない。彼が麻薬中毒者であろうと、意図的な失業者であろうと、そんなことは全くどうでもよい。唯一の問題、それは、[その]理由がいかなるものであるにせよ、彼が閾の上方にいるのかそれとも下方にいるのかを知ることである。唯一重要なのは、その個人が一定のレヴェルから転落したということであり、そのときには、さらなる調査を行うことなしに、したがって官僚的、警察的、糾問主義的ないかなる調査も行う必要なしに、彼に援助金を付与すべきである。そして、彼に[援助金を]付与するこのメカニズムが、彼に対し、閾のレヴェルを越えようという気を起こさせるようにすること、そして彼が、援助を受けることによって、なお閾の上方に戻ることを欲するために十分動機づけられるようにすることである。しかし、もし彼がそれを欲しなければ、結局のところそれはどうでもよいことであり、彼は援助を受け続けるであろう。私が思うに、これが、繰り返し申し上げるなら何世紀も前から西欧の社会政策によって練り上げられてきたものとの関係において重要な、第一の点です。


第二に、この負の所得税は、おわかりいただけるとおり、社会政策において所得の一般的再分配の諸効果をもたらしうるであろうと思われるもののすべて、すなわち、おおざっぱに言って社会主義政策の徴のもとに置かれうるようなもののすべてを、絶対的に回避するための一つのやり方です。「相対的」 貧困をめぐる政策、つまり、さまざまに異なる所得のあいだの格差を是正しようとする政策を、社会主義的政策と呼ぶことにしましょう。社会主義的政策とは、最も裕福な人々と最も貧しい人々とのあいだの所得格差に起因する相対的貧困の諸効果を緩和しようと試みるような政策のことであるとしましょう。そうすると、負の所得税に含意される政策が社会主義的政策の反対物そのものであるということは完全に明らかです。相対的貧困は、そのような社会政策の目標のうちには決して入りません。唯一の問題、それは、「絶対的」 貧困です。すなわち、その下方では十分な消費を可能にする所得が得られないとみなされるような閾こそが問題なのです 。


絶対的貧困については、一つないし二つのことを指摘しなければならないと思います。まず、もちろんこの絶対的貧困が、人類全体にとって有効な閾のようなものを意味すると考えてはいけません。この絶対的貧困はあらゆる社会にとって相対的です。ある社会においては絶対的貧困の閾が比較的高く設定されることになるでしょうし、それとは別の全体として貧しい社会においては絶対的貧困の閾がそれよりはるかに低くなるでしょう。つまり、絶対的貧困の相対的な閾があるということです。第二に、おわかりいただけるとおり ―― そしてこれは重要な帰結です ―― 貧者や貧困といったカテゴリーが再導入されるということ。このカテゴリーは、結局のところ、フランス解放以来間違いなくあらゆる社会政策が解消しようと試みてきたものであり、実を言えば、十九世紀末以来、あらゆる厚生政策、多少とも社会化しようとしたり社会化されたりしたあらゆる社会政策が解消しようと試みていたものでもありました。ドイツ式の国家社会主義型政策。ピグーによってプログラムされた厚生政策 。ニューディール政策。解放以後のフランスあるいはイギリスの社会政策。こうした政策のすべてが望んでいたのは、貧者というカテゴリーを認めないこと、いずれにしても経済介入によって人口の内部に貧しい人々と貧しくない人々とのあいだの裂け目をなくすことでした。政策は常に、相対的貧困の幅、所得の再分配、最も裕福な人々と最も貧しい人々とのあいだの格差の作用のなかに位置づけられていたのでした。これに対し、絶対的貧困を問題とするような政策、それは逆に、確かに相対的であるとはいえ社会にとっては絶対的であるような一定の閾を規定し、貧しい人々とそうでない人々、援助を受ける人々とそうでない人々とを分割しようとする政策なのです。


負の所得税の第三の特徴、それは、おわかりいただけるとおり、それがいわば一般的保障を行うものであるということ、ただしそれを最下層に対して行い、社会のそれ以外の場所においてはまさしく、ゲームの経済的メカニズム、競争のメカニズム、企業のメカニズムを作用させておくものであるということです。閾の上方においては、自分自身のためあるいは自分の家族のために、一人ひとりが一つの企業のようなものでなければならないだろう。企業の様態、競争企業の様態のもとで形式化された社会は、閾の上方において可能となり、一定の閾を下回る人々に対しては、最低限の保障のみ、すなわちいくつかのリスクの解消のみが行われることになるだろう。こうして、経済的最下層において絶えず可動的な人口があることになります。すなわち、もしいくつかの不測の事態が生じて閾の下方に落下してしまった場合には援助が付与され、逆にもし経済的必要が生じた場合、経済的可能性が機会を提供した場合には、利用されるし利用可能となるような、絶えず可動的な人口が得られるということです。したがってそれは一種、閾の上方と下方のあいだを浮動する人口、閾上の人口であり、これによって、まさしく完全雇用という目標を放棄した経済にとっての人手の永続的な蓄えが構成されて、必要ならばそれを利用し、やはり必要ならば援助を受ける地位に送り返すことが可能となるのです。


したがって、このシステムによって構成されるのは ―― 繰り返し申し上げるなら、いくつかの理由によって適用されなかったとはいえ、現在のジスカール・デスタンとバールによる景気対策にそのアウトラインのようなものがはっきりと見られるこのシステムによって構成されるのは ―― もはや完全雇用に重点を置かないような経済政策、この完全雇用という目標とそのための本質的道具としての任意主義的経済成長とを放棄することによってのみ一般的市場経済のなかに統合されうるような経済政策です。市場経済に自らを統合するために、そうしたすべてが放棄されるということ。ただしそこには、浮動人口の貯えが含意されています。つまり、閾にある人口、閾の上方にあったり下方にあったりする人口の貯えが含意されているということであり、そこでは、保証のメカニズムによって、もし市場の条件が要請する場合にはいつでも何らかの雇用の候補者となりうるようなやり方で、一人ひとりが生活を維持できることになるわけです。これは、十八世紀ないし十九世紀の資本主義を構成し発達させたシステムとは全く別のシステムです。そこで永続的な人手の貯蔵庫を構成していたのは、農村人口でした。これに対し、経済が現在のようなやり方で機能する以上、農村人口がもはやその種の人手の永続的貯えを保証できない以上、そうした貯えを全く別の様態のもとで構成しなければなりません。その全く別の様態こそ、援助を受ける人口という様態です。この人口が援助を受けるその様態は実際、非常に自由主義的であり、それは、完全雇用に重点を置き社会保障のようなメカニズムを活用するシステムに比べて、はるかに官僚主義的ならざるもの、規律主義的ならざるものです。結局、人々がそれを望むにせよ望まないにせよ、労働する可能性が残されるということ。とりわけ、人々を労働させても得にならない場合には、人々を労働させないでおく可能性が得られるということ。そのような人々に対してはただ、一定の閾における最低限度の生活の可能性が保証されるのみであるということ。こうして、新自由主義政策が機能できることになるのです。


ところで、以上のような企図は、私がみなさんにオルド自由主義に関してお話しした一般的テーマをラディカルにしたものに他なりません。ドイツのオルド自由主義は実際、次のように説明していました。社会政策の主要な目標はもちろん、人口の総体に起こりうる不測の事態のすべてを考慮に入れることではない。そうではなくて、真の社会政策は、経済ゲームにおいては何にも手を触れず、したがって社会を一つの企業社会として発達させておきながら、いくつかの介入のメカニズムを実施して、それを必要とする人々に対し、それが必要とされているときにのみ援助を行うようなものでなければならない、と。」