講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

『生政治の誕生』近日刊行

ミシェル・フーコー講義集成8 生政治の誕生 コレージュ・ド・フランス講義1978─1979』の翻訳がようやく完成し、8月下旬に刊行されることになりました。勉強会に参加してくださった方やお手伝いいただいた方には一冊差し上げる所存ですので、少々お待ちを。


筑摩書房 『生政治の誕生』


この本のなかの重要な一節を以下に紹介しておきましょう。すでに広く知られているとおり、この講義において問題になっているのは、「生政治」というよりもむしろ、「自由主義」およびその「社会」との関係です。


「十九世紀以来ずっと、市民社会は、哲学的言説のなかで、そして政治的言説のなかでも、次のような現実として参照されてきました。すなわち、市民社会は、統治、国家、国家機構、制度などに対し、自分を認めさせ、それと戦い、それに対抗し、それに反逆し、それから逃れるような現実として参照されてきたということです。私が思うに、この市民社会に対して付与されている現実性の度合いに関しては、慎重になる必要があります。市民社会は、台座として役立ったり、さらには国家ないし政治制度に対立するための原理として役立ったりするような、歴史的かつ自然的な所与ではありません。市民社会、それは、本来的で直接的な現実ではありません。市民社会、それは、近代的統治テクノロジーの一部をなすものです。[市民社会が]近代的統治テクノロジーの一部をなす、とは、市民社会がそうしたテクノロジーの純然たる産物であるという意味でもなければ、市民社会が現実性を持っていないという意味でもありません。市民社会、それは、狂気のようなものであり、セクシュアリティのようなものです。それは、相互作用による現実と呼べるようなものです。すなわち、権力の諸関係とそうした諸関係から絶えず逃れるものとのあいだの作用から、いわば統治者と被統治者との境界面に、相互作用的で過渡的な諸形象が生まれるのであり、この諸形象が、いつの時にも存在してきたというわけではないにせよ、それでもやはり現実的なものとして、今の場合には市民社会、別の場合には狂気などと呼ばれうるのだということです。したがって、市民社会は、統治テクノロジーの歴史における相互作用的現実の要素です。この相互作用的現実は、自由主義と呼ばれる統治テクノロジーの形式そのもの、すなわち、それが経済プロセスの種別性とかかわるまさにその限りにおいて自らの自己制限を目標とするような統治のテクノロジーの形式そのものと、完全に相関的であるように私には思われます。」(365-366頁)