講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

性と真理

4ゼミで現在扱っているテクストを理解するうえで基本的な一節を。微妙に改訳してあります。現代思想論、青学特講でもいずれ扱う予定。


「・・・18世紀に発達する社会は ―― それを市民社会と呼ぼうが、資本主義社会と呼ぼうが、あるいはまた工業社会と呼ぼうが ―― 性に対して、その認知を根本的に拒否するという態度をとったのではない。この社会は、逆に、性について真理の言説を産出するための大がかりな一つの装置を機能させた。この社会は、性について多くを語り、また各人に性について語ることを強要したばかりではなく、性についての規則立った真理を言い表そうとも企てたのである。まるでこの社会は、性のなかにこそ最も重要な秘密が隠されているのではないかと疑っていたかのようである。まるでこの社会は、そのような真理の産出を必要としていたかのようである。まるで、この社会にとっては、性が快楽のエコノミーのなかに登録されるのみならず、知の秩序だった体制のなかに登録されることが最も重要であったかのようなのだ。こうして性は、次第次第に、大きな疑惑の対象となっていった。性とは、我々の意志に反して我々の行動と実存とを貫く、すべてに関わる不気味な意味なのではないか。それは、そこを介して悪の脅威が我々に訪れる弱点なのではないか。それは、我々の一人ひとりが自己の裡に持っている夜の断片なのではないか。要するに、性とは、すべてに関わる意味、普遍的な意味、普遍的な秘密、遍在する原因、絶えることなき恐怖なのではないか、というわけだ・・・」


ミシェル・フーコー、『性の歴史Ⅰ知への意志』、渡辺守章訳、新潮社、1986年


なお、フーコーにおけるセクシュアリティの問題に関しては『フーコー・コレクション5 性・真理』(筑摩書房、2006年9月刊行)も参照ください。