講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

2011年度について

ごぶさたしておりました。


すでにお伝えしておいたとおり、2011年度は慎改にとって特別研究年のため、授業の担当はありません。この大変な時期に留守にするのは非常に心苦しいのですが、しっかり勉強して1年後に戻って来ますので、そのときにまたみなさんにお会いできるとうれしいです。


なお、講義を行わない以上、今年度の「講義日誌」は基本的にお休みです。ただ気まぐれに更新するかもしれないので、思い出したときにでも覗いてみてください。


最後に、現在の状況に直面して私が最初に思い出した文章を以下に載せておきます。ここで問題になっているのは政治的行動をめぐるフーコーの態度ですが、端的に行動一般の話として読むことも許されるでしょう。

 自分が望むことを知りそれを望む責任を、一人ひとりが担っている。そうした役目を、律法の石板もしくはその代用品のうちの一つに対し、すなわち、自然、伝統、権威、理想、有用性、生得性、共感、定言的命令、歴史の意味などに対し、押しつけることなどできない。フーコーは次のように語るにとどめていた。すなわち、自分の意見、態度表明、発言は、自分自身の個人的な選択であり、それを正当化もしないし押しつけることもしない、なぜならどんなに理屈をこねてもその正しさを証明しえないからだ、と。「私は普遍的戦闘に身を委ねたりはしません[・・・]。私がしかじかのことをめぐって闘うとしたら、それは、実はその闘いが私自身にとって、私の主体性において重要であるからなのです。」彼は、フランス監獄における重警備獄舎が耐え難いものであると思い、それに対して闘っていた。彼にはそれが耐え難いものであると思われたのである。ところで彼は、「それが耐え難いものであるとき、もはやそれに耐えることはできない」と結論し、自らに固有の政治的気質についての哲学的注釈を省略したのだった(・・・・・・)。
 しかし、自分が正しいと主張するのを我々がそのように差し控えるのは稀である。我々は一般的に、フーコーが真理への意志と呼んでいたものに身を任せるからだ。我々は、自分の選択を、あるがままの事実のようなものとして語るにとどめることもある。たとえば、愛国者はおそらく、「正しかろうが間違っていようが、祖国は祖国なのだ」と言うだろう。しかし、よりしばしば愛国者は、自らの祖国が正しいということ、あるいは、自らの祖国の側に立つことにこそ真の道徳があるということを言明する必要性を感じるであろう。それほどまでに真理への意志は強力なのだ。聖アウグスティヌスを引用するなら、「人は真理をとても愛しているので、真理とは別のものを愛する場合には、自分が愛するものが真理であることを欲するのである」。言うまでもないことだが、我々が行う正当化は詭弁である。我々は自分の選択に従って真理を判別するのであり、真理に従って選択するのではない。そして我々の選択こそが、諸目的を出現させるのだ。誰もがそのようにしているのであり、そこには、ロゴス、真理、理性、悟性を擁護する数多くの人々も含まれる。スピノザは教えていた。我々は、一つのことを善と判断するゆえにそれを欲望するのではなく、それを欲望するゆえにそれを善と判断するのだ、と。
 この真理への意志はおそらく、自らを安心させようと努めるものである。というのも、それは権力の道具、プロパガンダとなりうるからだ。(・・・・・・)とはいえ、真理への意志を回避する人々もいる。それは、ロゴスを持つ哲学者たちよりもしばしば、デュメジルの言う第二の役割を果たす人々、すなわち、熱情、怒り、気概(ティモス)を持つ戦士たちである。ところで、フーコーは一人の戦士であった。戦士は、もったいぶった言い方をしたり、弁論したり、自分は正しいと語ったりはしない。戦士は不正に対して憤慨しているのではなく、ただ怒っているのだ。彼は自らの動機に与した、というよりもむしろ、彼の動機が彼に与したのであり、彼は自らの動機のために闘い、議論などする気はない。彼は信念を抱いているのではなく、決然としているのである(・・・・・・)。

ポール・ヴェーヌ『フーコーその人その思想』より(204-206頁)。