講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

幻想の図書館

家に缶詰になっているとなかなかネタがないので、昨年同様、授業に関係ありそうなテクストをご紹介しましょう。まずはマネに関して。


「たしかに『草上の昼食』と『オランピア』は最初の≪美術館用≫絵画であった、と言うことができるだろう。ヨーロッパ芸術においてはじめて ― 必ずしもジョルジョーネやラファエルやベラスケスに合図を送るためでなく ― そうした個別的で目に見える関係にはしばられず、判読可能な典拠引用より深いところで、絵画が絵画自体に対してもつ新しい[、そして実りある]関係を示すために、画布が描かれた。美術館という存在と、そこに展示された作品があらたに身につける存在のありようや相互に結ばれるやり方とを、明らかにするために、画布が描かれた。それとちょうど同じころ、『聖アントワーヌの誘惑』は、文学作品としてはじめて、書物が山と積まれるところ、それらの書物の知が緩慢に、植物がはびこるようにじわじわと成長してゆくところ、あの緑色がかった制度を考慮に入れたのだった。図書館についてフローベールのやったことは、美術館についてマネのやったことに等しい。かつて描かれたもの、かつて書かれたものに対して ― というかむしろ、絵画やエクリチュールにおいて果てしなく開かれたままの部分に対して、ある根源的な関係に立ちながら、彼らは書き、また描くのである。彼らの芸術は、アルシーヴのできてゆくところに築かれる。彼らが貧しげな歴史的様相 ― 若々しさの減退、新鮮さの欠如、自由な発想の枯渇 ― を呈しているというのではない。われわれは学識偏重の時代を批判するときに、好んでこうした点をあげつらうものだけれど。要するに彼らは、われわれの文化の本質をなすある事柄を明るみに出したのだった。すなわち、今後それぞれの絵は、巨大な碁盤の表面にほかならぬ絵画というものに属し、それぞれの文学作品は、書かれたものという果てしなきつぶやきに属することになる。フローベールとマネは、芸術そのもののうちに、書物と画布を存在せしめたのである。」


ミシェル・フーコー「幻想の図書館」、工藤庸子訳、『ミシェル・フーコー思考集成II』、筑摩書房、1999年、25-26頁。