講義日誌 yasuyuki shinkai

明治学院大学文学部フランス文学科 慎改康之

「感染」と「規律」(『監獄の誕生』新装版への書評)

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』新装版(新潮社)への書評「「感染」と「規律」」が、以下に掲載されました。 

「感染」と「規律」

 なお、ここで焦点を当てたペストに関する記述(ペストに関しては文学的夢とともに政治的な夢もあるという主張)については、フーコーコレージュ・ド・フランス講義『異常者たち』(慎改訳、筑摩書房、pp. 49-53)のなかにもそれと同様のテクストがありますので、以下に引用しておきます。 

(・・・)諸々の個人の管理に関して、西欧には結局、二つの大きなモデルしかなかったように私には思われます。すなわち、らい病患者の排除というモデルと、ペスト患者の封じ込めというモデルです。そして、ペスト患者の封じ込めが、管理のモデルとして、らい病患者の排除に取って代わったという、このことは、私が思うに、十八世紀に起こった最も重要な出来事のうちの一つです。これを説明するために、ペストの発生を宣言されたときに一つの都市がどのようなやり方で隔離されたかということについてお話ししましょう。もちろん、都市の一定の地域、場合によっては都市と市街区の一定の地域が封鎖されて ―― したがってまさしく閉じこめです ―― 閉じられた地域となりました。しかし、このアナロジーを別にすれば、ペストに関する実践は、らい病に関する実践とは全く異なるものでした。というのも、ペストの発生によって封鎖された地域は、浄化のために追放された人々が身を置く雑然とした地域とは異なり、綿密で詳細な分析と細心な網羅的警備の対象であったからです。

 ペストが発生した都市は ―― ここでは、中世の終わりから十八世紀の初めにかけて公布された、どれも全く同一の規則の一式をご紹介しましょう ―― いくつかの区域に分割され、その区域は街区に分割され、その街区は街路ごとに分けられて、各々の街路には見張りが、各々の街区には監査官が、各々の区域にはその区域の責任者が、そして、都市そのものには、その事態に対して任命された地方総督か、もしくはペストに際して補足的な権力を与えられた都市役人が配置されていました。したがって、そこに見られるのは、地域の最も微細な要素にまで至る分析であり、そのようにして分析された地域を貫く切れ目のない権力の組織化です。切れ目のない権力。これを、二重の意味で理解しなければなりません。一方でそれは、今申し上げたとおり、ピラミッド状の権力でした。街路で家々の戸口を見張る見張り番から、街区の責任者、区域の責任者、都市の責任者に至るまで、そこには、全く中断のない、権力の大きなピラミッドのようなものがありました。そして他方、その権力は、単に階層化されたピラミッドとしてばかりでなく、それが行使されるやり方そのものにおいても、切れ目のないものでした。つまり、そこでは、全く中断のない監視が行われていたということです。見張り番は絶えず街路を巡回し、街区と区域の監査官は一日に二回監査を行うことになっていたので、都市に起こる事柄の何一つとして彼らの視線を逃れるものはありませんでした。そして、そのようにして観察されたすべては、絶え間なく、そうした視覚的な検査によって、そしてまた、あらゆる情報の登記簿への再登記によって、確認される必要がありました。実際、隔離が始められるときに、その都市に住むすべての市民の名前が一連の登記簿に記載され、そのいくつかは地域の監査官の手もとに、他は都市の中央行政庁に置かれました。監査官は毎日、一つ一つの家の前を通るごとに立ち止まり、点呼を取ることになっていました。一人一人に対して一つの窓が割り当てられ、名前を呼ばれた者はその窓に姿を現さなければなりませんでした。もしそこに現れなければ、その者は床についているということであり、床についているということは病気であるということであり、病気であるということは危険であるということになって、その結果、介入が必要になるのでした。病気である者と病気でない者のあいだで分類が行われたのはそのときです。それから、一日に二回の巡視によって ―― 監査官によって行われる生ける者と死せる者のそのような検査、そのような儀式によって ―― 構成されたすべての情報、登記簿に記載されたすべての情報は、中央行政庁に都市役人が保持する登記簿と照らし合わされることになりました。

 ところで、このような組織化は、らい病患者に関するあらゆる実践と、完全に相反するとまでは言えないとしても、少なくともそれらに対立するものです。ペストにおいて問題となっているのは、まず、排除ではなく、隔離です。狩り出すことではなく、一人一人に場所を与え、それを指定して、その場所にいるかどうかを隅々まで監査すること。追放ではなく、封じ込めが問題となります。ペストにおいてはまた、清浄な人々と不浄な人々、らい病にかかった人々とそうでない人々というように、人々を大きく二つのタイプ、二つのグループに分割することが問題なのでもありません。そこでは逆に、病気の人々とそうでない人々とのあいだに不断に観察された、一連の細かい差異が問題となっています。個別化、すなわち、個別性の細かい粒にまで到達する権力の分割と再分割が問題となっているということであり、したがって、らい病患者の排除を特徴づける大きな分割とは非常に遠く隔たっています。同様に、ペストにおける問題は、決して、距離を置くことでも、接触の断絶でも、周縁化でもありません。逆に、近くからの細心な観察こそが重要となります。らい病が距離を要請するのに対して、ペストの方は、権力が諸々の個人に対してますます接近してゆくこと、つまり、個人をますます恒常的かつ執助に観察することを含意しています。さらに、ペストにおいては、らい病においてそうであったような一種の浄化の儀礼が問題なのでもありません。そこでの問題は、健康、生命、寿命、個々人の力を、最大限にまで導くことです。つまり、重要なのは、健康な住民集団を産出することであり、らい病の場合のように、共同体のなかに暮らす人々を浄化することではないのです。最後に、ペストにおいては、住民集団の一部に対して決定的な烙印を押すことが問題となっているのではありません。問題は、規則性の領野の恒常的な検査です。つまり、そうした検査によって住民一人一人を絶え間なく評価し、彼らがはたして規則に適っているかどうか、定められた健康の規格に適っているかどうかを知ることが問題なのです。

 みなさんもご存じのとおり、ペスト文学という、非常に興味深い文学ジャンルがあります。そこではペストが、恐怖に満ちた混乱とみなされています。つまり、目の前を行き交う死に脅かされた人々が、自らのアイデンティテイを失い、仮面を脱ぎ捨て、地位を忘れて、自分がまもなく死ぬことを知る人々がそうするように遊興に身を任せる、そのような混乱として、ペストが描かれているということです。個人性の解体の文学としてのペスト文学。そこには、個人性が解体し、法が忘れ去られる瞬間としての、ディオニュソス祭的なペストという夢があります。ペストが始まる瞬間、それは、都市においてあらゆる規則性が取り除かれる瞬間である。ペストは、身体を犯すように、法を犯す。少なくともこれが、ペストの文学的な夢です。しかし、ペストについてのもう一つ別の夢があります。それは、政治権力が完全なかたちで行使される見事な瞬間としてのペストという、政治的な夢です。ペスト、それは、住民集団に対する網羅的警備がその極限に達する瞬間であり、いかなる危険なコミュニケーションも、いかなる混乱した共同も、いかなる禁じられた接触も生じえないような瞬間である。ペストの瞬間、それは、権力の毛細状の分枝が絶え間なく一人一人の個人に到達し、その時間、その住居、その場所、その身体にまで到達するほどに、住民集団が政治権力によって余すところなく網羅的に警備される瞬間である。ペストには確かに、ディオニュソス祭的瞬間という、文学的ないし劇場的な夢があります。しかしそれと同様に、ペストには、余すところのない権力、障害物のない権力、その対象に対して完全に透明な権力、完全な形で行使される権力という、政治的な夢もあるということです。軍国主義的社会の夢とペストに襲われた社会の夢、十六世紀から十七世紀にかけて生まれるこれら二つの夢のあいだに、一つの帰属関係が生じるということがおわかりいただけると思います。そして、私が思うに、まさしく十七世紀そして十八世紀以来、政治において実際に活躍したのは、古いらい病のモデルではありません。物乞い、狂人などの排除や大いなる「閉じこめ」のなかで見られるのは、おそらく、らい病モデルの最後の残滓、あるいは最後の大々的な表明の一つにすぎません。このモデルは、十七世紀のあいだに、もう一つ別の、それとは全く異なるモデルによって置き換えられました。すなわち、政治的な管理のモデルとして、ペストがらい病を引き継いだのです。そして、十八世紀における、あるいは古典主義時代と君主制の時代における、数々の大いなる発明のうちの一つがここにあります。

 おおよそのところ、次のように言えるでしょう。すなわち、ペストのモデルがらい病のモデルに取って代わったという、このことは、権力のポジティヴなテクノロジーの発明と呼べるような一つの重要な歴史的プロセスに起因する、と。らい病に対する反応が、追放、排除などといったネガティヴな反応であるのに対し、ペストに対する反応は、封じ込め、観察、知の形成、観察と知の積み重ねによる権力の効果の増大といったポジティヴな反応です。狩り立て、排除、追放、周縁化、抑圧といった権力のテクノロジーから、ポジティヴな権力、生産する権力、観察する権力、知る権力、自らがもたらす効果によって肥大する権力へと、移行が起こったのです。

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